当サイト運営者、編集長のまさこです。
自分の〝思っていること〟って、わざわざ文字にしませんよね。でも、実際に書いてみると、なんだかすごくスッキリするってことありませんか?
私は、セルフ・カウンセリングⓇという方法で、自分のかなり深い意識や感情を、ひたすら書いて解放してきました。
思えば、けっこう大変な人生でした。
子育てにつまずいた20代、30代で離婚。シングルマザーで働き詰めだった40代。40代後半には長女の自死という、思いもよらない事態に遭遇し悲嘆に暮れました。
そして、50代。52歳の時に、20年勤めた介護事業会社をある日突然解任になりました。
普通に出勤したら、「本日付で解任します。」と議事録を読み上げられ、職を失ったのです。(アメリカかぁ!?と、今は冗談を言えますが、この時は悲壮感が漂っていました。)
その日を境に、私のiPhoneが、パッタリと鳴らなくなったんです。ホントに「おまえ死んだのか?iPhone!?」と思うくらいの状況になってしまいました。
電話やメールやLINEを全部合わせたら、一日に百件近くはこなしていた仕事、それがある日突然なくなったんです。
ちょうど2020年、新型コロナウイルスが猛威をふるい、第1回目の緊急事態宣言が出された頃でした。「そういえば、私の報酬が一番高かったもんなぁ…。」と、
これまた今では笑って言えますが、当時はワーカホリックからの突然の無職状態に、魂が抜けたみたいになっていました。
このような強いストレスを、私はいったいどうやって乗り超えてきたのかといいますと、やっぱり、書いて、発散してきたのです。
なのでウツにもならず、自死もせず、今、こうして笑って生きていられるんじゃないかと思います。
ん??
もしかして…。もしかして??
この書き方って、人に教えてあげたらいいんじゃないの??と思うようになりました。(遅いっ!)
書いて、自分で読み返し、自分を発見するという、セルフ・カウンセリングⓇという方法なのですが、登録商標になっているので、私が個人のブログで勝手に書くことができません。
ですが、一番肝心な部分をお伝えすることはできると思います。
それは、〝思ったままをリアルに言葉で表現する〟ということなんです。
私のブログの中で、愛のモヤモヤ相談室・感想を、読んでいただけましたでしょうか?
その中で、相談者さんの気持ちになったつもりで、その心情をぶちまけたような心のつぶやきor叫びがあったと思います。
これを、セルフ・カウンセリングⓇでは、<心のセリフ>と呼んでいるんです。
この<心のセリフ>、モヤモヤとした自分の気持ちを、その心情にピッタリと合った言葉でリアルに表現できると、自然に自己解放が起こってきます。
「そうか!自分はこんな風に思っていたんだ!」「こういうことが、イヤだったんだ!」と、わかると、本当にスッキリするんです。
すごい効果なんです。
ぜひ一度、やってみてください!
心のモヤモヤを、一旦外に出すことができると、そのモヤモヤは、人から見た自分みたいに見えます。
他人のこととして、一度冷静になって考えられるといった感覚でしょうか。
でも、思ったままをリアルに書くって、最初はとても抵抗を感じるんです。私もそうでした。
私は、20代の頃、子育てにつまずいた時期があります。イライラして自分の子どもを愛せないことに悩んでいたんです。
でも、誰にもそんなことは言えないし、もちろん人にも、そんなことを思っているなんて知られたくありませんでした。
なにより、自分自身がそんなことを感じていると、認めるのさえ怖かったです。
「子どもを愛せないママって、根本的に間違ってる。ありえない。」と、自分を責めてもいました。
そんなときに、図書館で、〝わかっていても、イライラするお母さんへ(渡辺康麿著 学陽書房)〟というタイトルの本を見つけました。
「私の心を見透かすようなタイトルだなぁ…。」と感じたこの本との出会いが、書いて自分で読み返す・セルフ・カウンセリングⓇを始めるきっかけとなりました。
その後は、書いて書いて書いて…、ひたすら自己分析と自己解放を続けました。(NHK学園の通信講座 セルフ・カウンセリングⓇを受講していました。)
当時は、三重県で二世帯住宅に住み、子どもを保育園に入れて、ドラッグストアや雑貨・アパレルチェーン店などでパートをしていました。
掛け持ちで、お舅さんのスーパーカブを貸してもらって、プロパンガスの検針員なんかもしていましたよ。
都会から(いゃ、横須賀って都会じゃないよと思いつつ 横須賀のみなさんゴメンナサイ)来て、よう働く嫁さんやなぁと世間ではけっこう評判だったんです。
そんな私が、セルフ・カウンセリングⓇで自己分析と自己解放を続けた結果…。(NHK学園の通信講座 セルフ・カウンセリングⓇの講師養成コースに進みました。)
2000年に離婚しました。世の中がミレニアム婚やミレニアムベビーのブームだった頃です。
12年間の結婚生活(内、8年間が元ダンナさんの両親と二世帯住宅で同居)に、終わりを告げました。
書いて書いて、自分の本当の思いが明らかになっていくにつれ、現実との折り合いがつかなくなってしまったんです。
やっぱり、嫁と姑がひとつ屋根の下でうまくやっていくのって、かなり難しかったです。
良き嫁、良き妻の肩書きを失い、落ちこぼれた私。世間の風って、こんなに冷たかったのねと最初はさすがにショックを受けました。
私の身内に離婚した人が誰もいなかったので、私自身も離婚に対しての免疫がなく、差別意識もあったんだと思います。
そこから、また書いて書いて…、ひたすら自己分析と自己解放を続けました。
2000年に、時給800円のパートで入社した会社が、数年後、介護事業に参入し、私一人だった従業員は、2010年には、150人を超えていました。
娘2人を育てながらのシングルマザー時代、がむしゃらに働きました。
長女が某私大に行きたいと言った時は、経済的にも、メンタル面でも、全力で応援しました。
(私は高卒、実家の父は中卒だったため、学歴コンプレックス克服目的?もあり、必要以上に力の入った応援になってしまったのではないかと思います。喜び過ぎたことが長女を追い詰めてしまっていたのかもしれません。)
私の次姉も、長女の浪人時代をマンションに居候させてくれ、支えてくれました。
一浪して、某私大の理工学部に入学した長女。当時は、小保方さんがテレビによく登場していて、「リケジョ、リケジョ」などと、理系の女子がもてはやされた時代でした。
情報工学科に入った長女。2年後、今度はダブルディグリー・プログラムで、フランスに行きたいと言いだし、大学3年生になる年に留学しました。
これが…、運の尽きというか、今考えると長女の人生を暗転させるきっかけになってしまったように思います。
このプログラムは、修了と同時に日本とフランスの二つの学位がとれるというものでした。
ところが、長女はフランスでほとんど勉強についていけず、一年足らずで帰国することになってしまったのです。
ちょっとうまく説明できないんですが…、二つの学位がとれる、というのは、両方の大学院を卒業したってことになるみたいでした。(=ダブルディグリー・プログラム)
そういえば、このプログラムに参加するということは、大卒にはなれない、両方の大学院卒という学歴になる、と長女が最初に言っていました。
ん??
ちょっと待って…。フランスの大学院での学位がとれなかった…と、いうことは…?
そうなんです。長女は帰国して、大学3年生からやり直すことになったのです。帰国と同時に就活も始めました。
4年生になった頃、IT企業に内定をもらい、私も実家の父も胸をなで下ろしていました。
私は、理工学部に進んだ人が、大学院で研究をせずに、大学のみで卒業となることが、どれだけ無念なことか、全くわかっていませんでした。
しかも、長女が4年生の秋に、一緒に留学したお友達たちは、フランスで学位をとって帰国し、日本の大学院に進んだのだと思います。
そのお友達たちを横目で見ながら、「院に進みたい。」と、思っていたんでしょう、実際、そのように私に言ったこともありました。
でも私は、一年浪人して、留学もして、4大に行って、いったいどれだけお金を使えばいいの??あんた、おじいちゃんやおばあちゃんの老後のお金もかなり使っちゃってるのよ。
今さら、内定辞退なんてしたら、来年の卒業生にも迷惑かける話じゃないの。
うちは母子家庭なんだし、いい加減、働いてほしい。大学院なんて行ったら、卒業する頃はもう27歳近いじゃない。
結婚や出産はどうするの!お母さんがあんたの年には、もう二人とも産んでたわよ!なんてことを思っていたので、大学院進学については、私はあまりいい返事をしていませんでした。
そんな空気を察したんでしょう。長女は、新社会人の道を選びました。
その後は、大切なあなたをなくすということで、書いたとおりです。
今、思えば…、大学院に行かせてやればよかった。
警察の倉庫の鉄扉を開けて対面した長女。あれだけ輝いていた我が子の変わり果てた姿。
悲しかった。
ほんとに、書いていて未だに泣けてきます。
けれど、私は自分を責めることはしません。
なぜなら、私なりにその時その時を精一杯生きてきたからです。
日々、命をつないで、今ここに在る自分自身にありがとうと言いたいです。
同時に、日々、命をつないで、今そこに在るあなたをねぎらいたいです。
お疲れさまです。いゃ、いろいろありますよね。大変ですよね。お察しします。
共に、生きていきましょう。(合掌)
~まさこ略歴~ 1967年生まれ 伊勢神宮まで車で55分 三重県志摩市在住31年。出身は神奈川県横須賀市
Every Little Thingのいっくんと同級生。神奈川県立初声(はっせ)高等学校卒。(注:一学年540人いたので、伊藤君は絶対私を知らないと思います。ちなみに私の旧姓は角田(かくた。あだ名もかくたかな?)
高卒後、農協(現・JAよこすか葉山)に3年勤務。結婚退職して横浜市在住。1990年に長女を出産、1992年の次女の妊娠を機に、マイホームに惹かれて(元)夫の実家である三重県に移住。
2000年の離婚後も、義務教育の間は環境を変えずにこっち(三重)で子育てしようと、仕事に没頭する。家も建てる。ガツガツ資格もとる。宅地建物取引士、介護支援専門員、介護福祉士、福祉住環境コーディネーター2級。生涯学習セルフ・カウンセリングⓇ指導会員。
離婚しても、仕事を失っても未だ三重県在住。「どうして実家に帰らないの?」とよく聞かれます。
「長女の墓守。」が正解だけど、イチから説明するのがめんどくさい。
いい感じの人口密度。高い建物がなくて、空が広い。車に数分乗ったら海岸に着く。ちょっと車を止めて浜歩き。波の音、鳥の声。木々の葉音。空の色、太陽、雲の形、海、砂浜、潮の満ち引きで毎日違う風景。なんだかんだで、自然豊かな三重県が大好きなのかも。
リストラ後、2年半、ゆっくりと過ごし、その間も住宅ローンの支払いは続けているので、結局預貯金を使い果たす。さぁて、そろそろ働かなきゃ…。(遅っ!)
ブログ名の「れびはぴ」は、Let’s be happy(幸せになろう)♪の略。英語的に合っていなかったら和製英語とご理解くださいませ。